戦後の混乱を生き抜き、独自の発明と商いの工夫で「三寸」を含む様々な屋台道具を生み出し、全国行脚で広めた須田海山。彼の歩みは、現代に受け継がれる「屋台文化」へつながる物語である。

群馬、玉村での幼少期

1920年、須田海山(本名:須田眞吾)は群馬県佐波郡玉村町(現:群馬県佐波郡玉村町)に生まれる。1920年は第一次世界大戦後の株価大暴落で戦後恐慌に突入した時期であった。玉村の学校では勉強も誰にも負けず、遊び仲間では大将だった。昭和7(1932)年、小学校3年生の春に、長患いだった母が亡くなった。同じ年、新しい共同市場ができ、祖父が実権を握っていた青果市場では競りの声も滅多に聞かれなくなり、家族で夜逃げをした。父は「立つ鳥あとを濁すな。あとをようく掃き清めてくれ。火の始末には念を入れてくれよ。」と言い残した。

須田海山の写真
須田海山

栃木、小山の長屋

一家は栃木県下都賀郡栃木町(現:栃木県栃木市)に移り住む。父が叔母を頼って働き口を探しに東京へ行くがなんの便りもなく、1か月が過ぎたときに手紙と送金があり、その後はなんの便りもなかった。玉村を出て3か月後、母の生まれ故郷に近い栃木県下都賀郡小山町(現:栃木県小山市)に移り住む。家賃3円50銭の長屋で、街の人たちは浅草長屋と呼んだ。小学校4年生のころ、「自分達のことは自分達の力でやるんだ」と心に決める。祖父は毎日籠を背負って近くの農家へ卵の買い出しに行き、翌日に祖母がその卵を籠を背にして町の料理屋、そば屋、旅館に売りに行った。家の入口に「地玉子あります」と書いて貼ると、長屋の人たちからは「玉子屋さん」と呼ばれ、海山は「玉子屋さんの眞ちゃん」と呼ばれるようになった。

長屋の子はみな勉強ができたが、学校から帰ると家の手伝いや内職の麻ない・米研ぎに懸命で、それが当たり前だった。いくら働いても内職の麻ないだけではたかが知れているが、それをしなければ飢え死にする。学校から帰ると水まきが最初の仕事で、20杯も30杯もまいた。暗いランプの下で、夜遅くまで麻ないが続いた。

紙袋づくりと商いの基礎

古雑誌で袋を作ることを思いつき、うどん粉の糊を水でとき障子貼りの刷毛を使って、姉と二人で袋を貼った。無から有が生まれる不思議な感動があり、麻ないとは別の喜びと希望が湧いた。学校から帰ると袋の入った風呂敷を下げて駅前通りやにぎやかな商店街を一軒一軒歩き回った。ありふれた文句ではなく、考えた文句を言おうとするが、なかなか言葉にならない。これはと思う店の前を二度三度行きつ戻りつした末、駄菓子屋のやさしそうなおばちゃんが30銭で買ってくれた。「こんにちは」と言おうとしても喉が引きつれて声がでなかったが、「ふ、ふ、ふくろなんです」と絞り出すと、「袋を売りに来たのか」と中を見せるよう言われ、「いくらでもいいんです。買ってくれさえすれば」と答えた。買ってくれたおばちゃんを手をあわせて拝みたいほどうれしく、自分の手で30銭稼げたことが生きる自信と希望につながった。

袋を貼るのは簡単でも、売りさばくのは難しかった。最初のおばさんのような優しい人はめったにいない。「お父さんは?」「お母さんは?」とよく聞かれ、同情で買ってもらうのは望まず、「親はなくても、俺には日本一のおばあさんがついてるんだ」と、子供でもちゃんとした品物を売る商人だという気持ちで臨んだ。値ごろもおおかた分かり、売れ口のいい袋の大きさも自然にわかってきた。仕入れが一番肝心で、長屋内の廃品回収のおじさんから仕入れていたが、御殿町の新しい問屋は値段も安く、「面白いから読んでごらん」とおまけも添えてくれた。まけてもらった分は1銭でも竹筒の貯金箱に入れ、売上の半分も入れた。「いいか、いれるよ」と妹、弟、姉にも集まってもらい貯金箱を囲んだ。

「玉子屋さん」としての人気も出て、得意先も定着し評判もよかった。「お祭りまでには電気がつくかもしれない」。町の夏祭りの前日、みんなで竹筒を開けると2円11銭あった。電気屋のおじさんが軒下の電線をつないでから長く待ち、7時のサイレンを合図に電灯がついた。「とうとう電灯がついた」。目に見えない心の奥深くまで光輝く希望の電灯であった。

この町に越して半年足らずでほとんどの様子を覚え、紙袋の包みを下げて町の隅々まで歩き回った。町の西側には小高い丘があり、その下を思川が流れ、水が清く釣り人が絶えなかった。釣りは大好きで、この川は思川の名のままに好きな想いの場になっていた。大平山の彼方に、生まれ故郷玉村の空もかすかに見える。玉村の友達には「再び会えることはあるまい」と思いながら、赤城おろしに追われるように渡った利根の大橋を思い出し、自分たちは故郷を捨てたのだと感じた。

橋の向こうの商店で「おばさん袋おいてくれませんか」と売りかけの言葉もいつの間にか慣れた。「おや袋屋さんなの」と言われ、店の片隅の釣竿を糸と針付き10銭で揃え、釣竿と交換もした。同じ組の男の子に「なあんだお前袋売りか」とせせら笑われ、「ほらあのランプ長屋の子だよ」と言われる。確かにランプ長屋だが、その言葉はとげのように胸に刺さった。本当のことだから仕方ない。今に大きくなりさえしたら、悲しいことに耐えるたびに心の中の夢が大きく張り伸ばされていく。

長屋の子供は小学校を終えても高等科に進める子は少なく、特に女の子は小間使い奉公に出されるのが不思議ではなかった。姉も高等科へは行けず、奉公先の話が持ち掛けられ、まもなく留守の間に奉公に行ってしまった。姉は赤ん坊を背負ってときどき長屋に来て、飴玉を食べさせようと持ってくるが、上がらずにさっさと帰っていった。奉公先のことは何も言わなかった。

袋売りの帰りでも足を延ばせば、山繭とり、栗拾い、山芋掘り、魚釣りなど自然の贈り物が生活の足しになった。山繭は1つ1銭で売れた。麻ないで6銭稼ぐには一日めいいっぱいの仕事で、血のにじむような内職で得たお金でも支払いの段になるとあっけない。山繭は30も取れば大稼ぎだが運がないと2~3個。麻ないは一日どんなに夢中になっても7銭ほどで、わずかでも約束されている。いろいろ考えると世の中の仕組みは難しくてわかりかねた。

焚き木と新聞配達

2メートルほどの竹竿の先に、廃品回収のおじさんからもらった鎌を針金で縛りつけ、高い枯れ枝を払い落す道具を作った。新兵器は威力抜群で、近場一回りするだけで上質で太い枯れ枝が集められた。生木伐採でお巡りさんに警察へ連れていかれるが、なんのお咎めもなく、翌日にそのお巡りさんが新聞配達の仕事を紹介してくれた。その新聞店で配達区分は60件、1月の収入が3円60銭と聞いて小躍りして喜んだ。朝早く起きるのも楽しかった。親切なお巡りさんには申し訳ないが、家で使う焚き木拾いはやめられなかった。

約束された月々3円60銭の報酬は希望と自信の泉のようで、3円60銭の中から50銭だけ小遣いにし、手製の貯金通帳を作ってわずかな学用品を買う以外は祖母に預け、残高が増えるのを楽しみにした。小学6年の修学旅行のころには5円たまっていた。旅行費は3円60銭だったが、それが祖父の仕入れに回り、祖母の預金局でも払い戻しできなくなったため、旅行をあきらめ、旅行の日はいつもの時間に家を出て時間をつぶした。「今にみていろ」とひとりつぶやいた。

1987年2月25日毎日新聞掲載の記事
1987年2月25日毎日新聞掲載の記事

挿入詩「海山」

生まれた群馬の玉村で 母が死んだのは十の春
赤城おろしに故郷を追われ 泣いて渡った利根の橋
栃木暮らしはただ三月 落ちて流れた吹きだまり
処小山の浅草長屋 灯すランプの薄あかり
仕事を求めて東京へ 父は戻らぬ人となり
苦労くの字に老の身曲げて 玉子売りする祖母かなし
親はなくとも子は育つ 誰が言うたやそんな嘘
暗い灯影で貼る紙袋 焚木拾いも生きる知恵
修学旅行も貧ゆえに ひとり我慢の笹小舟
今に見てろと流れる雲に 眞吾十二の春浅し
                    
須田海山のスケッチ
須田海山の残したスケッチ

終戦、宇都宮と闇市

終戦、日本は負けた。組み立てるべき飛行機部品は不足だらけで、工場の機能も完全に狂っていた。退職金も目減りするばかりで思案に明け暮れる。手っ取り早いのは闇米の運び屋で、農家から米を買い入れ1日1往復東京まで運べばどうにか生きていけた。ある日、かつての工場仲間と再会し、都会人の生き方に触れる。そこで目にした「電気コンロ」に不思議な魅力を感じ、通電すると発熱して真っ赤になり、お湯も沸き魚も焼ける様子に見入った。炭や薪など燃料は手に入りにくく、誰もが欲しがる代物だったため、闇米と交換して見本1台を入手。材料を購入し1号機を20分ほどで作成、スイッチひとつで用が足りる便利さから「ようしこれでいこう」と決め、この電気コンロにしばし人生をかけることにした。家庭の電圧に耐えられずヒューズが切れるため銅線を添える闇取引となったが、1台250円で「ありがたい」と感謝される。宇都宮の闇市で売るべく従兄が引き受け、受け取ったその日の夕方に「みんな売れたよ」と札束を持ち帰り、組み立てる端から売れる日々が続いた。しかし1か月ほどで「ナショナルが卓上コンロとして電熱機を大量に売り出した」と告げられる。

夢遊病のごとく宇都宮行きの電車に乗り、二荒山神社前の番場の仲見世に向かう。従兄の店にはナショナルの電気コンロが並び、塗装も鮮やかで勝負にならないと悟る。燃料不足の今、自分のコンロも便利さは同じだと考え、「彼がだめなら自分で売ってみよう」と無謀な思いつきを実行。昭和20年10月1日、空き地で路上組立を始めると人垣ができ、「電気コンロです」と応じるうちに次々と売れ、大成功。「明日もここで売ろう」と決める。翌日以降も同様に売れたが、「どけどけ」とあらわれた男に詰められ、露天商の組合事務所へと連れて行かれた。

露天商組合、ある一家に身をよせる

事務所には「〇〇露天商組合」「〇〇一家」の表示があり、赤ら顔の年寄が「どこから来たかね?」と穏やかに問いかける。
地元露天商の大御所であるこの老人がたまたま居合わせてくれなかったらどんな始末になったか、想像すると冷汗ものであった。
露店商には独自の慣習があり、地域の組合に所属して承認を受けることで初めて商売が許される。
冷静に判断する余裕もなく流れのまま組合に所属することになったものの、考えると幸運だったと思える。
本来なら数年の厳しい修行時代をへて相当の信頼を得た者だけが一本立ち(のれん分けによる自立した商売)が許されるのが露天商の慣習であった。しかし戦後の混乱期、乱立する闇市へ露天商の風習を守り切るのにも至難な状況となり、そのどさくさがあればこそ、組合に所属するだけで一本立ちが許された。とにもかくにもどうにか明日からの商売を続けることができるようになった。
仮の姿だと内心で自分に呟きながら、10人ほどいる同期の仲間を兄弟と呼び、先輩からは口上仁義(「お控えなすって…」ではじまる自己紹介の挨拶のこと)などの指導をうけた。

電気こんろのネタ枯れと新ネタ探索

年が明けて昭和21年、電気コンロは大手新製品に押されて人気が失せ、「潮時か」と感じる。
それでも統制品である電気器材を東京の闇市で仕入れ宇都宮にもってくるだけで客がついた。
統制品の中でも極めて貴重だった電球2箱を「ここで売ってほしい」と毎週持ち込む男が現れた。見回りの警官に注意するだけで飛ぶように売れる良ネタであり、私にとって思わぬ甘い蜜となった。
すぐに辞めようと思っていた露天商稼業だったが、いつの間にかどっぷりと漬かっていた。
テキ屋、香具師(やし)とも呼ばれるこの世界にはなんとなく納得しかねるものがあったものの、付き合ってみれば根は素朴な仲間達との人情にも触れ、体験してみる限り一般社会となんら変わりがないと感じるようになっていた。
さらに、露店とはいえ、一本立ちした一国一城の主であるとも思えきて未練の方が強くなっていた。甘かった電球の闇取引は半年ほど経過したある日突然に途切れた。最後まで名前も知らずじまいだった。
復興が進み社会生活が安定してくると、露店の闇市はうま味がなくなってきた。電気器具をただ並べるだけの商売はそろそろ幕の引き時かもしれなかった。

終戦翌年の3月には、仲間の誰にも知らせなかったが、遠からず父親になる立場となっていた。
「子供のためにも今の生活でいいのだろうか」と電車での移動中に何度も考える。親戚や知人の前で胸を張り切れない自分。しかし考えても答えはでなかった。

ひとくちに露天商とっていも、品物を並べて素朴な売り方をする「純売(じゅんばい)」と、売り声や啖呵、手振り、細工見せがつく「コロビ」とに大別される。前者は売り啖呵による過大評価なしの、純然たる商品販売の人たちであり、特産物、海産物、果実、土産物などを扱う。いつか独立して家店を持ちたいという熱意の人が多い。
後者のコロビをする売人が「テキ屋」、「香具師(やし)」と呼ばれている。言葉巧みに過大評価な啖呵をつけたり、雰囲気を盛り上げたところでサクラによる衝動買いへとけしかけるなど、その技は見事としかいいようがない。しかし、中には度が過ぎた見せかけだけの代物、贋物、インチキなものも少なくない。そうなると正直、同じ露天商の仲間うちでもありがたくない存在である。
しかし何よりも私を奮起させていたのは一本立ちの魅力であり、自分の努力が即、表現できるという点にあった。
露店商になじみ切れない自分と一本立ちの魅力。相容れない考えが日々あたまの中を回りつづけた。

同期の兄弟分のひとりは、印刷工上がりで子供相手の当てくじで人気だった。
コロビの中に「誤賭売(ごとばい)」なるものがあり、その売り手を「誤賭師・ゴト師(ごとし)」という。
その名のごとくインチキ、イカサマを巧みに使い分けたものが多く、当時の「当てくじ屋」は、アタリのない誤賭売であることが大半であった。試し引きでは大当たりが連発でるのに、いざ本番では絶対にアタリはでないのだ。でも兄弟分のクジは他のゴト師とは違った。空くじがなくハズレでもちょっとした飴が必ずあたる。
他のゴト師は「あれじゃ、ただの飴屋じゃないか」とバカにしたが、彼には彼の算段があった。
ネタ分(ねたぶ)が悪くとも、つまり原価がかかり1回の利益は薄くとも、売上の総量を増やすことで、利益の総量も増やす薄利多売戦略であった。誤賭売などしなくてもコロビの打ち方はある。「これなら自分もコロビの打ち手になってみるか。」そんな気がしないでもなかった。

街が復興するにつれ電気器具が売れなくなる中、「自分もコロビの打ち手に」と思い、東京アメ横で「一役ネタ」を探し、ゼンマイ仕掛けの二輪車に注目。浅草橋で仕入れ、最初の2〜3日は売れたが、番場の仲見世はアメ横とは違い、打ち枯れが早いと知る。「祭りネタ」だと聞き、真岡・大前神社の秋祭りに臨んだ。
空箱と板切れで店を作り(※)、昼頃からの人波の中で二輪車はまずまずの売上。
帰路、露天商は天候に左右される(※)名前どおりの「露の命」で、一国一城の主を自負しつつも、浮草にも似た宿命を違う自分が見つめていた。
続く地域の行事でも、兄弟分の「箱くじ」は、外れても飴一本がもらえる工夫で人気だった。

※戦後当時の露店商売では屋根はおろか、組み立て式の三寸屋台もまだ無かった。

独自のくじネタを考案。コロビの打ち手へ

コロビの打ち手ネタを日々考えるなかで、「おみくじ風の箱くじでなく、下足のような番号札のつかみ取り」を思いつく。手ぬぐいの布袋に番号木札を入れ、もう一組の番号札を戸板の枠に見えるように置き、番号ごとに商品を置く。大当たりも中当たりもなく、全部が当たりでインチキなしを強調するため5センチ角、1から20にする。実際に並べると見た目も賑やかで、一目を引いた。兄弟分も賛成し、「客が運を買うなら、売り手も運を売る」。飴問屋に特大・中・細目の三通りを特注した。特大の飴は人気抜群。仲見世の外れで毎日続け、群衆が輪を作ると「インチキいかさままったくなし」と大声を張り上げる。ときどき中身改めとして中の木札を示してみせる。大当たりが出ると売上は倍増。木札と当たり枠の番号を合わせるところから「数合わせ」と名付け、一家の他の兄弟分も各地で打ち手となった。かなりの反響をえるまでになっていたが、まだ少し胸につかえるものがあった。

毎月20日の親方宅での定例会後、断り切れずに参加していた花札「バッタ」の遊び方をみて閃く。「これだっ」。1〜10の木札を3枚ずつ計30枚にし、3枚の合計点で勝負する「数字合わせ」を考案した。出目の数は3~30の28通りとほぼ同じだが、その組み合わせは何百種にも及ぶ。もっとも出にくい三点(1・1・1)と三十点(10・10・10)を特賞に据える。これならインチキなどせずともはったりの効く高額景品を特賞に据えることができる。今日(※海山執筆当時)から数えて50年後もネタとして人気だが、その発案者を知る者は少ない。種明かしは兄弟分にしか明かさなかった。この数字合わせが全国に広がり、今もなお好評なのは、たとえ外れてもなんらかの賞品が当たる、あの兄弟分の気持ちが守られているからだと思える。

幻の名器「自在規」づくり

一言で祭りといっても、大前神社のような日没で終わってしまう小規模の鎮守の祭りから、夏の祇園祭りや春秋の大祭となると宵宮、本祭りと町をあげた「大高市(おおたかまち)」まで様々。これがどの地方にも振り分けたように存在する。 祭りが一般庶民の憩いを代表する行事であり、四季を告げる暦でもあったからである。
しかしながら戦後は人出が途絶えてしまった行事も多い。 わが町小山の興法寺の施餓鬼は北関東を代表する大高市でありながら今では一店の出店もなくなった行事の一つだ。
子どもの頃、その施餓鬼での忘れがたい出来事。そのおじさんが売っていたのは、絵を拡大して描く「自在規」という奇妙な道具であった。菱形の木枠の左の端で絵をなぞると右の端につけた筆記具が画用紙の上に大きく拡大した図を浮き出させる。
その様子が不思議で、巧みに素早く似顔絵を描いて見せる様が私の心をとりこにした。「自分にもできるかもしれない」「欲しい」と思いつつ、当時の自分には手がでない金額であったため何時間もの間その様子を眺めつづけた。…その記憶が鮮明に蘇った。
「自在規屋になりたい」との思いが閃き、少年のころの自分と同じように、あの魔力に魅せられる少年がいるに違いないと考える。今の自分ならそれができるかもしれない。そんなふうに思うと矢も楯もたまらなかった。
心のどこかでそれとなく後ろめたさを感じている誤賭付きの数字合わせから脱したかったのである。

しかし製造元も製法も皆目わからない。一家の長老にきいても自在規という名前しかわからない。打ち手が少なく、特異なネタで、技術的に難しすぎるのか、後継者ができないらしい。
もしかしたらあのおじさんに会えるかもしれないと、戦前から戦後にかけて機会があれば各地の祭りや盛り場を探してみたが、あのおじさんはおろか他の打ち手に会う事もできなかった。それなら「自分でつくるより手はない」と決意。記憶だけを頼りに手探りで作業をすすめる。欲しい一念で脳裏にやきつけた記憶はおどろくほど鮮明に思い出せた。なんとか試作品ができあがり、試してみる。描けた。案ずるより産むがやすしとはまさにこのことである。
しかし、単に形が拡大できるだけでは物足りない。倍率が確定して自由ににその倍率に移行ができなければ商品価値が乏しい。ここからがなかなかの難問であった。ふと戦時中の射撃訓練の記憶を思い出す。山砲兵の二番砲手として着弾点を割り出す際の手法で逆算することで道が開けた。「できた。」ついにできた。作ったのは現在の自分ではない。あの時の少年の夢が、執念が花開いたのである。

あのおじさんとは言葉一つ交わしていなかったが、こうなることが約束されてでもいたかのように、ある日突然、本格派香具師(やし)である自在規の打ち手が誕生した。
自分で作る商品を「デッチネタ」という。電気こんろはそれである。自在規の場合、実演自体は売り物ではない。自在規で絵や写真を書いてみせる。このように売らんがためのしぐさ、仕事をすることを「ゴトを掛ける」という。
自在規の売りは同じゴト掛けでも、インチキ・だましのためのゴト掛けではない。練習さえすれば誰でも習得できる。いかに興味をもたせて、購買心を起こさせるかが本領である。子供たちに夢を売るのである。
どんなに正確にできあがった自在規でも、杉板素地では粗末に見えるため、薬局の顔料で二色に染め、出来栄えに手応えを得る。いかに大量に製造するかが問題であった。組立は自分でやるとして杉板の仕上げ等は専門の大工に頼まねばなるまい。 大量製造のための課題があったが、少年時代の経験や、戦時中に飛行機工場で仕上げ工をした経験をいかしすべて解決した。
執念の記憶が形になった。「無から有が生じた」不思議な感動で、その夜はなかなか寝付かれなかった。

自在規打ちの名手としての出発

幻の自在規はついに完成した。あとは群衆の前でどう売るか。実際に実演して見せるゴト掛け、説明、啖呵、つまり売り言葉である。何もインチキ物を売るわけではない。特別上手な啖呵はなくてもよい。下手でもよい。とにかく手を動かして、なぞってみせることだ。手品の種明かしでもするように、手早く動作を繰り返して、現実に画線を表現してみせることだ。
自在規の打ち手、売人はきわめて稀な存在で、あのおじさん以外、関東には誰もいないらしかった。
ネタとしてはコロビ師の代表的なものだが、かなりの絵心がないと真打ちにはなれない。一口上を十分ぐらいで一段落、オチにしなければ銭はとれない。オチとゴト掛けの区切りである。いかに上手に描いても、見せるだけでは商売にならない。客に買う気を起させなければ、ゴト掛けの意味がない。
適当な間合いを計って、売り啖呵に切り替える。一般の実演販売では、ここでサクラが入る。でも自在規打ちにはサクラは無用である。ていねいに説明し描いてみせれば、心から欲しがる客がでるはずである。最初の客をサクラ代わりに利用して、衝動的に売り啖呵をつけるのがコロビ師の名人芸たるもので、買わせ上手の呼吸である。

一本立ちの打ち手、売人になるには、それなりの修行、年季をつまなければならないのが当然である。その点、私にはありがたいことに、恵まれた天性があった気がする。絵心が要る真打ちの世界で、特別習ったわけではないが絵を描くのが好きで得意であった。
テキ屋・香具師(やし)―日本古来の封建的な渡世稼業の中で、親方、師匠、先輩から教えを受けて何年かの実習実績をあげたうえで、認められた者だけにしか一本立ちは許されない厳しい掟がある世界だと聞いていた。
私にはその苦労がなかった。ないというよりゴト掛けの先輩も、師匠もいなかったのである。師匠はあの幻のおじさんであり、先輩は少年時代の自分自身である。

初売り、打ち下ろしは宇都宮の仲見世に決めた。四隅に酒箱を立て、その上に戸板を敷き、三十センチと四十センチの黄と橙色にそめた二種の自在規を左右に並べた。
人の出はまだまばらであったがその方がやりやすかった。群衆が一人、二人と立ち止まり、私の手元を見つめていた。
今、日本中で話題の「天才少女歌手・美空ひばり」がみるみる描き出される現実に、興味があったのかもしれない。
最後に脱脂綿をほんの少しつまんで、表情の陰影をつける。そのひとなででアッという間に絵が写真に変わる。それでゴト掛けは終わる。
絵より写真の方が難しいが、群衆の興味を集め、感動させるには、絵に比べ抜群の効果がある。
しかし、群衆からは何の手ごたえもなかった。説明が未熟だったのか、熱心に興味深そうに見つめていると思っていたのに、ゴト掛けが終わると、蜘蛛の子が散るように無言で立ち去っていく。
想像していたよりも上手にできたと思えた。写真にしたことでもゴト掛けの効果は十分だと思った。人気の高いひばりや裕次郎は、群衆の心を捉えるには最高のハッタリとなる。客寄せにはもってこいのネタである。だが問題は売れ方だ。買わせなければただの見世物、骨折り損である。いまいち研究がたりないのであろうか…。

「なあに、心配ないよ。啖呵もゴトも最高だ。客層が悪いんだよ。学校がおわって学生がくれば、大受け間違いなし。大高市(おおたかまち=大きい祭り)向きだなぁ。あんまり見事だからオレもコツ入れ(=サクラ役による声入れ)を忘れちゃった」と、肩をたたいて力づけてくれた人がいた。親方であった。
果たしてそのとおりであった。親方の目に狂いはない。他の店が仕舞いにかかる夕方近く、私の店を取り巻く群衆の中に学生が目立って増えてきた。
「一丁たったの30円。めったにお目にかかれないよ。明日もここにくるとは約束できないよ」これが私の落とし文句であった。「おじさん、ちょうだい」。中学生らしい男の子から声がかかる。「これはいい。俺も土産にもらおう」。親方がサクラ役をかってでてくれた。「私にもちょうだい」「俺にも売ってくれ」と声がかかる。
「ではもう一度、初めからやるよ。よく見ていてくれよ」手ごたえは十分。「ちょうだい」「ちょうだい」。もうわかったとばかりに、途中で声がかかる。「ハイハイお兄ちゃん。ちょっと待ってね。ついでに仕上げも覚えてよ」
最後の客をコツ追い(サクラ役)に使うゴト掛けの神髄がここにある。衝動買いに一人でも多く誘いこむ間合いを計るのである。いつの間にそんなことを覚えたのか。自分でも不思議なほど自然にできた。
想像以上の上出来。記念すべき初売りの売上げ高はなんと780円、実利600円。今日までの苦労が見事に花開いたのである。
帰りの電車で小学校の同級生に「眞ちゃん、すげぇなぁ。見てたよ。大したもんだ。儲かるんだろう。」と声をかけられた。この春に宇都宮の本屋に就職が決まったと聞いた。月給が600円だとも打ち明けた。それと同額の実利に優越感を覚えた。

今日まで半信半疑で日を送ってきた。それが目がさめたように、前途の扉が開けたのである。

「香具師(ヤシ)でいい。日本一の香具師になってみせる」。この広い世界で妻と結ばれたように、数ある職業の中で自在売り・ゴト掛けが唯一の天職だと思えた。 自在規は大高市向きで新場(あらば)ネタであった。二番煎じがきかない。一度買ったら、あとは用無しの品である。
新天地を求めて盛り場から盛り場、祭りから祭りへと旅人稼業が続く。
県内には同じような仲見世は他にはないが、春祭り、夏の祇園、秋の大祭と各市町村ににぎやかな行事が続く。先人の知恵であろうか。年間を通して稼げるように日取りが組まれているのがありがたい。どこへ行っても新場で、面白いように売れた。
出店の売上に影響するのは「1.場所、2.ネタ、3.啖呵」と言われる。私の自在規は場所を選ばない。人流さえあればたちまち人だかりができた。ネタの被りもない。啖呵も真似できるものなしとあって敵なしであった。
「宇都宮には自在規売りの名手がいる」と評判になったが、打ち枯れの欠点が目立ち始め、春は売れても秋には「去年買った」「おじさんみたいには描けない」とささやかれた。
もっと子供の立場に立つ必要がある。ゴト掛けは写真よりも漫画の方が効果的かもしれない。小さな祭りではもっと子供の心を捉えなければ駄目である。中高生や若い人向けには写真の方が魅力だろう。大人向けには、より奥深く絵を楽しむための備品として擦筆や色墨も売りネタにしてみたい。
商品価値を高めるためにも啖呵に重点を置くより、説明書を印刷してつけることにしよう。次々とアイデアがでてきた。
商品名も大切である。ちょっと堅苦しいとも思ったが「伸縮自在規」と思いついたまま、そう決めた。
説明書の箇条書きの終わりに、「発売元 キング画研」と入れてみた。「この道で日本一になるんだ。王様になるんだ。」そんな夢が消えなかった。
あとは大高市(おおたかまち=大きな祭り)へ出張って、売り試しをしてみよう。
大高市へ出るからには、他の露天商からも一目おかれるくらいの貫禄をつけたかった。
仲間内の売人にもそれなりの威圧が得策であろう。「戦わずして勝つ」。真似のできないゴト掛けで心服させると同時に、店構えも一流でなければならない。借り物の戸板や空箱の机では、単なる田舎ヤシにすぎない。
大高市ともなれば、宵宮、本祭り、後日と三日連続が多い。少しぐらいの雨にも耐えられるよう、本格的な店作りが必要である。
天幕を貼る竹材は出先で借りるとしても、ゴト掛けの机だけは、組み立て式で自前の物がほしい。この組立机を「三寸」と呼んでいる。長老の話では、江戸時代の下谷三寸なる人が発案者で、その名を今なお伝えて三寸と言うのだそうである。組立ても解体も素早くできて、しかも軽くて持ち運びに便利である。

「鼓打ち」と言って、四本の脚に縦、横、斜めに紐を掛け、中心一点に絞って締め付ける。鼓をくみ上げるのと同じ理屈で出来上がる。上部に二本の桟を横長に組合せ、二十センチほどの薄板を十二枚並べて動かないように回し締めにくくりつければそれで机が出来上がる。釘は一本も使わない。移動の際は分解して分厚い布で包み、持ち手をつければ、汽車やバスにも持ち込みやすい。この三寸を持つようでなければ、一本立ちの旅人とは言えない。渡世人にとって通行手形のようなものである。
「青天井にズリ(=ござ)一枚」の啖呵とゴト掛けだけの時代はすでに終わった。たとえ露店と言えども、客を迎えるにはできるだけの雰囲気づくりが必要である。
一目みただけで足を止める。関心を誘う工夫がなければならない。みせかけのハッタリでは駄目である。
客寄せに使う見本の絵も、思い切って豪華絢爛に飾りつけてみたかった。裕次郎の絵や、ひばりの絵も、新聞紙大の大きさに描き上げて、天幕掛けの間口いっぱいに埋めてみたかった。時代劇の主人公や、野球選手、相撲の横綱などの話題の名士、花形をズラリ並べて、ゴト掛け前に群衆の関心を呼ぶ。これが檜舞台の私のオリジナルであった。三寸も注文通りに完成して(※)、晴れの出番を待っていた。

※(注)ここでの「三寸」は、まだ鉄製の組立三寸屋台開発前であり、戦前からの木製三寸を大工に外注していたもの。

東海道三嶋大社の大祭と
「香具師・須田海山」誕生

「打ち枯れた田舎祭りを回るより大高市へ。全国の子供・少年に夢を売る本物香具師になりたい」晴れの檜舞台は、東海道・三嶋大社の大祭に定めた。 さすが大高市である。「ネタ付」と言って、場所割出店の受付場には、いずれ劣らぬ売人達が、二百人ほども集まっていた。
やがて場所割が始まった。場所取りは家名と名誉と、貫禄を背負っての戦場でもある。場外れでも客寄せには自信があったが、あまりに場外れでは売人仲間に印象が乏しい。
旅人としての檜舞台、初土俵である。本土場(※縁日でもっとも人通りのよい出店の一等地)に堂々と三寸を組んで、ゴト掛け、ゴト師の面目をお目に掛けたい。とは思っても、かけ出しの、俗にいう三下である。私の親方の◯◯は、東海道では縁も深く、少しは名の売れた人だと聞いていた。親方にあやかって、受付には「自在規、○○」で申し込んだ。
まさかと思っていたが、意外や意外、親方○○の名は抜群の力があった。並みいる他家名の代表を尻目に、コロビの本土場、しかも天場所で差し(指名)が利いたのである。
「オー」。どよめきと視線がいっせいに私に向けられた。本土場に店を張れるということは、ゴト師売人としての名誉、貫禄で、実力の証明でもある。
「初めて受ける親の光」。立派なゴト掛けぶりを発揮して、親方の名に恥じないよう努力しなければ申し訳ない。早くも燃えるような闘志が全身の血を熱くして、感動に身も心もふるえた。
幸い、新しい構想のもとにハッタリの絵を十分用意してきたのが、何よりも心強かった。
宵宮から本格的に打ち込むつもりで、天幕も張った。後部背中の部分と真上、間口いっぱいにハッタリの絵を飾った。思ったより堂々たる店作りである。

これに目を見張って驚いたのは、群衆よりも売人達、仲間の香具師達であった。 机の左右に、黄色と橙色に染め分けた自在規、中央に説明書、両脇に大小十二色の擦筆と、ラベルも鮮やかなキングコンテの缶を並べ終えてみると、もうそれだけで様になっている。
さすが大高市である。あとからあとから押し寄せる群衆の波は絶える間もない。息つく間もない盛況である。落とし啖呵もはずんで出る。
お披露目の宵宮にしては、売上もまあまあであった。明日の本祭りの手ごたえは十分である。

明けて本祭り、天候にも恵まれて、午前中から押すな押すなのにぎわいであった。 目の前にたっている少年の持ち物をみて、私は我が目を疑った。と、同時に息の根が止まるほどの衝撃が全身を貫いて走った。その手に握られていたのは自在規であった。ただ、それは私の自在規ではなかった。
「どこで買った?他に売り屋さんがいるのか?」。ゴト掛けも中途で、私は少年に詰め寄った。「向こうのおじさんだよ」。もしかしたらあのおじさんではないか。 売りネタを中央に一まとめ集めると、その上に風呂敷をかぶせて、少年が指さしたサーカス目がけて駆け出した。
同じ自在規の売人であれば、ツキネタ(※同じネタのこと)である。新参の私が当然、挨拶に行かねばならない。相手が本土場で、私が場外れならともかく、知らなかったではすまされない。相手があのおじさんなら、大先輩である。

…いた。いた。思わず足が止まった。

興法寺での仕草が思い浮かぶ。あおのおじさんに間違いない。あれから十余年の幻の再開である。三尺ほどの小店で、頭の上の木の枝に懐かしい西郷隆盛の絵が、当時のままに下げてあった。ニ十個ほどの自在規が側にあるだけで、私の店構えとは比べものにならなかった。
「売中失礼します。何も存じませんで、ご挨拶がおくれました。私も自在規でお世話になっています」
客の離れを待って、思い切って頭を下げた。

「まあまあ堅い挨拶は抜きにしましょう。私は隠居の身です。見ましたよ。ゆうべ、じっくりあなたのゴト掛けを拝見しました。なかなかできるじゃありませんか」
年は六十を過ぎているようである。この人があのおじさんなのか。記憶の人とは違うようにも見えた。
「私は栃木の小山です。小山の興法寺へいらしたことはありませんか」
「ああ、若い時は栃木へも行きましたよ。かなりの昔になりますね」
やはりこのおじさんに相違なかった。とうとう会えたのである。私の胸の奥だけに生きていた幻のおじさんが、いま目の前にいる。
「私はもう年ですよ。目が利かなくなりました。この三嶋大社で打ち上げたいと思っていた矢先。奇遇だねえ。私で打ち手がなくなると思っていましたよ。誰の手ほどきを受けたかね」
「独り芝居です。興法寺で見たおじさんです。私の先生はあなたでした」
夢でも見ているようで、私はしばらく声もでなかった。おじさんの名は、萩原雄峰(仮)だといった。横須賀の住居だが、この三嶋を最後に隠居すると言うのであった。
「あとはよろしく頼むよ。」
心なしか笑顔にもわびしさがあた。萩原雄峰―絵描きにふさわしい芸術的な名だと思った。
「君のような打ち手に会えたので、安心して打ち上げができるよ。精々頑張ってくれ。これから諸方へ旅かけるには、家デッチ(※やさデッチ。商品を自宅で自製すること)では大変だろう。何なら静岡のネタ元を紹介してやるよ」
。そう言ってネタ元を教えてくれた。製造元があったのである。比べてみると、私の考案したのとほとんど変わりがなかった。
執念だけで作った私の自在規が、おじさんに会いたがっていたのかもしれない。運命とはこんなものか。幻のおじさんに遂に会えたのである。しかも、それが最初で最後だったのである。

本祭りは人出も最高で、売れ行きも良かった。「○○(※親方の名)の兄さん、見事なゴト掛けですね。」
しばらく私の様子をみていたらしい。口上の切れ目を見計らって、世話人が声を掛けてきた。「今夜、盃事があります。よろしくお願いもうします。」
大高市には、盃事、祝事がつきものであるらしい。差し出された奉加帳には、噂に聞いたお歴々、親方衆が列記されており、当夜は若手兄弟分、五分の盃であった。
祝金の多寡が貫禄の目安とも受け取れる。親方の名に恥じては申し訳ない。本土場を割ってもらった面目もある。一応目を通してみると、三百円、五百円が多く、千円もいくつかあった。「どうぞよろしくお頼みもうします。」思い切って千円渡した。
「会場は料亭吉川です。是非とも出席よろしくお願い申し上げます」。世話人達の態度がガラッと変わった。
旅人として初めての経験、祝事である。事情知らずの私の祝金千円也は抜群の高額で、親方以上であったらしい。
事情を知るや知らずや、金の力は偉大であった。その夜の盃事の席に、○○(親方の一家名)代表として、上座近くに私の席が用意されていた。
祝いに先立って、回り面通し、すなわち自己紹介の仁義が先行されるのが恒例になっている。「手前生国と発しますは」に始まるあの合付である。百人近い貫禄ある面構えが、きら星の如くに左右に居並んでいる。
息詰まるような厳粛さの中で、左手から順番に名乗りが続く。
「続いてお願いもうします。手前生国と発しますは関東です。」遂に私の番がやってきた。
「当時身の勝手持ちまして、栃木県は小山に仮の住居推参罷りあります。不思議なる縁持ちまして、渡世の親は○○です。従います若者で姓は須田、名は海山です。…名は海山です」。

低音で間を置いて、「名は海山です」を二度目は語気を強めて繰り返した。「見苦しき面体ながら、引き立てよろしくお頼もうします」。
おもむろに顔を上げ、左から右へと視線を回して会釈した。親方衆はじめ、皆の視線が射るように私に集中した。間合いも十分とれた、われながら見事な演出であった。
堂々のアピールである。「海山(かいざん)」の名は、料亭でのとっさの思いつきであった。

萩原雄峰(仮)、幻のおじさんの名を聞いた時、非常な感銘を受けた。不思議な魅力があった。幻の先生にふさわしい名であった。
私もそんな名がほしい。瞬間、そう思った。登世に生きる仮の姿、皆をアッと言わせる、仮の名があってもいいはずである。
親がつけてくれた我が名は眞吾。素晴らしい。眞(まこと)の吾を貫きたいと心に誓っている。入れ墨でハッタリを利かす連中相手の渡世人である。代わりに名前でハッタリをつけてやろう。
相手を威圧できる大きな名がいい。親の恩は海より深く、山より高しという言葉がすきであった。とっさにしては上出来だ。
海と山を併せのんで、海山。
夢も希望も大きくいこう。
海千山千と解する人があるなら、それもよかろう。家業の華と思えばいい。
海山―なんと堂々たる名ではないか。三嶋の料亭吉川での檜舞台で、諸国の親方衆に、披露した誇るべきわが名である。

香具師、須田海山の誕生であった。

須田海山手書きの原稿
須田海山手書きの原稿

三寸開発、全国行脚

三嶋の料亭で誕生した香具師須田海山は、その後自在規打ちとして日本全国を流浪した。稼ぎの中から次の目的地までの汽車銭だけを懐に残して、すべて家に送金するような厳しい旅を続けていた。自在規香具師として行脚しながら露店商売への絶え間ない探求心を重ねる中で、独自の折り畳み機構による三寸売台を開発。
昭和35年には自宅で露天商用の器具製作販売をはじめる。戦後の復興とともに民間にも金属が流通されるようになるとこれを取り入れ、改良型の金属製三寸屋台へと発展させた。今日も夜店で使われ続けている。三寸屋台だけにとどまらず、綿菓子機、たい焼き機など、露店商向けの調理器具・道具類を次々と開発し、屋台やのれんから調理器具まで関連するあらゆるものを扱う会社「須田商事」を作り上げた。
この世を去った今でも、須田海山の生きた証は、日本全国の祭りの中で息づいている。

現在の須田商事

昭和32(1957)年1月、須田海山は栃木県小山市に「須田商事」を設立し、本格的に全国に向けて販売を開始する。
昭和35(1960)年には香具師を廃業。同時に露店商向け道具製造販売を本業とする。
その後、自社工場兼本社社屋を新設、株式会社化、第2工場設立と、事業を発展させながら、三寸屋台を中心とした大小1,200点以上の商品を開発する。
「やきそば」や「かき氷」など屋台用のれんや、大小さまざまな各種看板も、はじめはすべて須田海山の手書きだった。現在もその形を残しつつ、一つ一つ手作りで電ノコで削ったり、印刷したりされている。
平成16(2004)年、永眠。83年の生涯を終える。
娘婿であった山嵜孝也(やまざきこうや)が2代社長に就任、翌年の平成17(2005)年10月、タカマチ産業と商号を改める。
現在代表をつとめるのは、須田海山の孫でもある3代目山嵜俊也(やまざきとしなり)。
須田海山が発展、近代化させた日本型屋台の製造を通して、日本の屋台文化の継承と、露店商およびそのお客様のために、社員とともに日々奮闘中である。

現代表3代目山嵜俊也氏
3代目の山嵜俊也氏
たいやき機の型
たいやき機の型
のれんや幕等の製造
のれんや幕等の製造現場
手作りの看板用部品
現在も手作りの看板
余った材料で製作された油引き
全国から評価を受ける油引きは三寸屋台製造時の端材を活用

参考文献